グレース・ウェールズ・ボナー、エルメス メンズウェアに新章を刻む

グレース・ウェールズ・ボナーがエルメスのメンズウェア部門クリエイティブ・ディレクターに就任したという発表は、単なるラグジュアリーファッション界における後任人事ではない。むしろ、それは一つのシグナルである。この人事は、エルメスがメンズスタイルの未来をどう捉えているか、そしていかに既成概念にとらわれない独自の道を歩み続けているかを示唆している。

ウェールズ・ボナーは「安全」な人選とは言い難く、まさにその点こそが、彼女の起用をエルメスにふさわしいものにしている。彼女の経歴を要約すると以下の通りである。

• ロンドンのセントラル・セント・マーチンズを卒業後、2014年に自身の名を冠したブランドを立ち上げた。
• キャリア初期から、ブラック・マスキュリニティ、伝統、文化的ハイブリディティといったテーマを取り上げ、英国およびカリブのアイデンティティをテーラリングやメンズウェアに織り込むことで注目を集めた。
• 2016年にはLVMHプライズの若手ファッションデザイナー部門で優勝。以来、The Business of Fashion誌からは「ファッション界で最も将来有望な新人の一人」と評されている。
• 批評家たちは彼女の作品をクラフト、カルチャー、そしてサブテキストが交差する点に位置づけている。GQ誌の見出しにも「グレース・ウェールズ・ボナーが描くブラック・エレガンスは、メンズウェア界で最もホットな存在だ」とある。
• 彼女のデザイン言語は、コンシャスでありながらコマーシャルでもある。学術、アート、ヘリテージに裏打ちされたウェアラブルな服作りが特徴だ。

要するに、ウェールズ・ボナーはクリエイティブな信頼性だけでなく、思想的かつ文化的な側面も持ち合わせている。職人技と伝統に深く根ざしたラグジュアリーメゾンにとって、この起用は洗練さと現代的な複雑さを結びつけたいという願望を示唆している。

エルメスの流儀：才能はあれど、自明ではない選択

エルメスはこれまで、ファッション界の最も声高なシグナルに従うことはなかった。クリエイティブ・ディレクターの選定や、彼らがスタイルを進化させる手法は、メゾンが予測可能な選択よりも「やや既成概念から外れた」人材を好むことを一貫して示してきた。

ウィメンズウェアでは、1997年にマルタン・マルジェラを起用した。脱構築主義的なベルギー人デザイナーである彼の前衛的な厳格さは、当初、メゾンのクワイエット・ラグジュアリーとは相容れないように思われた。その後任には、2003年から2010年までジャンポール・ゴルチエが就任し、その不遜なウィットでブランドに遊び心をもたらした。続いて2010年から2014年まではクリストフ・ルメールが率い、抑制の効いた構築的な明快さを表現した。エルメスはこれらの変遷を通じて、話題性のあるスターデザイナーという「安全」な人選を一貫して避け、むしろ最も予期せぬ方向から、メゾンのクラフトマンシップを核とするDNAと感性が合致するデザイナーを支持してきた。

今回のウェールズ・ボナーの起用もその路線を継承している。彼女は誰もが予想する「ラグジュアリーメンズウェアのスーパースター」ではなく、その感性がニュアンス、文化的な深み、そして知的な質感をもたらす人物である。エルメスのようなブランドにとって、これはまさにクラフトマンシップと伝統、そして“静かなアバンギャルド”というレガシーにふさわしい人選である。

なぜ今なのか

このタイミングは重要である。エルメスのメンズウェア部門を37年間（1988年就任）率いてきたヴェロニク・ニシャニアンが退任し、彼女の最後のコレクションは2026年1月に発表される。これにより、ウェールズ・ボナーは初の本格的なショーデビューまでに、約6ヶ月間のリサーチ、吸収、そして自身のビジョンを構築する時間を得ることになる。

プレッシャーにさらされるラグジュアリー業界では、多くのメゾンがクリエイティブ・ディレクターの迅速な交代、派手な発表、話題性を求める人選で対応する。しかしエルメスは、静かに世代交代を行いながらも、自社のペースとビジョンを維持している。そのこと自体が注目に値する。

彼女の就任がエルメス メンズウェアに示唆するもの

今後のメンズウェアラインは、エルメスのクラフトマンシップ、豊かな素材、そして洗練性を継承しつつ、より明確な文化的感性を通して表現されることが期待される。ウェールズ・ボナーが持つ英国とカリブという二重のイディオムは、エルメスの「クワイエット・ラグジュアリー」という精神性を失うことなく、新たな物語の層をもたらすかもしれない。

また、自身のブランドでの経験は、彼女が自律的に活動することに慣れていることを意味する。これは、大衆的な話題作りのためにデザインを指導するのではなく、デザインが自然に開花するのを待つというエルメスの手法を継続する上で好都合である。デビューを急がされることなく、6ヶ月という準備期間が与えられたことは、エルメスが彼女に熟考された独自性のあるものを形作る時間を与えていることを示唆している。

若干の留意点

注目度の高い人事には常にリスクが伴う。伝統に深く根ざしたブランドが、長年の顧客に違和感を与えることなく、いかにスムーズに新たなトーンへ移行できるだろうか。ウェールズ・ボナーは事実上、ニシャニアンの静かな穏やかさとクラフト主導のビジョンによって定義されたメンズウェアの時代を受け継ぐことになる。したがって、アイデンティティを損なうことなく進化させることが課題となる。

エルメスがグレース・ウェールズ・ボナーを選んだことは、多くの点でメゾンが象徴するものを体現している。それは、深いクラフトマンシップ、伝統への信頼性、そして安易なものを追うのではなく、時間とテイストに仕事をさせるという意志である。

ウェールズ・ボナーは、フランスのラグジュアリーメゾンのメンズ部門を率いる初の黒人女性という快挙を成し遂げた。これは彼女個人にとってだけでなく、業界全体にとっても画期的な出来事である。そしてこのような節目を語るのは容易だが、重要なのは彼女がその立場で何を成し遂げるかである。

過去20年間のエルメスが学べることは、それはメゾンが一過性の話題性に賭けるのではなく、ビジョンに投資するということだ。ウェールズ・ボナーの起用により、エルメスはメンズウェアの物語に新たなナラティブ、声、そして質感を取り入れようとしている。そうすることで、ラグジュアリーメンズウェアの未来への道を切り開くかもしれない。